北条のむかしばなし 第2回
口誦(くちずさみ)
このシリーズは北条新聞に掲載した郷土史家井坂敦實さんによるむかしばなしに、紙面の関係で載せられなかった、文章や写真などを追加したものです。ディープに北条を知るための小さく深~い歴史のお話し。
これをなんといったらよいのかわからないので、いちおう口誦と題しておく。古くから伝えられて、歌うでもなく、節をつけて唱えるでもなく、ただ普通に語られてきた。それはこうであった。
筑波千軒 小田千軒
北条三百六十軒
小泉十軒 タニシ村
オハグロ三軒 ドジョッピゲ
この文句(もんく)の意味するところは、筑波や小田はむかしたいへん栄(さか)えていて、千軒も人家があったが、北条はたった三百六十軒、小泉は十軒しかなくタニシのような村、オハグロは三軒でまるでドジョウのヒゲだ、というのである。筑波や小田の繁昌(はんじょう)ぶりをほめ、北条をいちだんと低く見くだしている。小泉十軒、オハグロ三軒のくだりは、北条をおとしめるついでに引きあいに出されただけの話で、タニシだの、ドジョウだなどとけなされて、きのどくな言われようである。
この文句を筑波や小田の老人は、さも得意気(とくいげ)に口にした。「オメラのほうより、オラホのほうが、むかしはこんなだったのだぞ」と自慢していたものだった。その自慢に長らく言われるがままに従ってきた。たしかに、小田は小田氏が居城を構(かま)えて、鎌倉時代以来栄えていた。筑波も同様に、筑波山神社の門前町として、古くから栄えていたかもしれない。
しかしよくよく考えてみれば、これはおかしな話である。筑波や小田がどんなに栄えていたとしても、千軒もの人家が密集していたとは、とうていありえないことだからである。それが事実であったとは思われない。これに対し北条は、寛永十二年(一六三五年)の記録(「筑波郡北条村之事」筑波町史史料集第六篇所収)に百八十六軒とあり、享保六年(一七二一年)の記録(「筑波郡北条村差出張」つくば市史史料集第二編所収)に三百三十八軒とある。明治九年(一八七六年)の戸籍帳(つくば市教育委員会その他所蔵)では二百七十九軒である。「北条三百六十軒」は時代によって出はいりはあるが、実数に近い。口誦の文句はどう理解したらよいのだろうか。事実なのか、うそなのか。
↑昭和40(1966)年度 筑波町勢要覧より
小泉の十軒は、多少の増減はあるが、昔も今もほとんど変わらない。オハグロの三軒はどうなのか。住人の遠藤信一さんにきいてみた。オハグロの所在は通称、下妻街道ぞいにあって、北条の飛地(とびち)【北条という大字(おおあざ)に所属するが、ほかの大字の中にとび離れてある土地】になる。遠藤家の祖先は、約百五十年前の明治初期に、瓦(かわら)作りのための良質の粘土(ねんど)を求めて、田中からこの地に移ってきた。その後、岡野家や染谷家が移って、三軒になった。オハグロの名称は、羽黒神社に由来するのではなく、「お歯黒【むかし結婚した女性は歯を黒くそめる習慣があった】様」をまつるからという。ついでの話しに、オハグロに電気が通じたのは昭和三十五年(一九六〇年)頃と聞いて、驚いた。北条の街に電気がついたのは大正二年(一九一三年)である。同じ北条なのに、五十年も遅い。たった三軒では、電気会社から冷遇されたのか。
この遠藤さんの話によって、ようやく口誦の謎がとけた。つまりこの文句は古く江戸時代から伝えられたものではなく、明治以降(一九世紀後半)につくられた、新しい口伝えだったのである。それなら「筑波千軒小田千軒」のデタラメブリも、わかるような気がする。
↑昭和50(1976)年度 筑波町勢要覧より
ではなぜこのような文句が作られたのか。ここから先はわたしの推測になるが、明治以降北条の街が大繁昌するようになって、そのにぎわいは近隣の人からうらやましがられたのであろう。わたしの子供のころ、昭和三十年代(一九五五年頃)の初市(はついち)には、仲町の通りが人であふれ、天王橋の堀の上には舞台がかけられて、めでたい神楽(かぐら)が上演され、それを見物する人でみうごきができなかった記憶がある。土浦・下妻をのぞけば、筑波表(つくばおもて)では北条が一番の繁栄ぶりを誇っていたのである。
これを外から見ていた筑波や小田の人々は、心中おだやかではいられなかったのであろう。まして筑波には門前町としての誇りがある。小田には城下の誇りがある。ナニクソという思いでいたのではないか。そこから、誰がいいだしたのかもしれないが、口から口へ伝えられるようになったのが、あの口誦だったと思われる。つまりそれは、筑波や小田のかつての繁栄を物語るものではなく、実は北条の繁栄ぶりを目の前にして、くやしくてたまらぬ思いを表しているのである。ここには近隣からねたみ・そねみを買うほどに栄えていた、かつての北条の事実がある。
↑神楽の舞台がかけられたという天王橋
このわたしの推測をうらづけるものが谷田部にある。谷田部のも口誦である。
谷田部が城下なら
タニシも魚か
これも谷田部の繁栄をうらやんだ近隣の人々が、谷田部をけなすために、言いだしたのであろう。谷田部は細川氏の城下町であった。細川家は一万六千石とはいえ、大名(だいみょう)である。ただ谷田部の殿様(とのさま)の住居は城と呼べるものではなかった。堀も石垣も櫓(やぐら)もなく、まして天守なぞはなかった。ただの平屋の御殿(ごてん)であった。そこで谷田部の繫昌をねたましく思う近隣の人々は、谷田部は城下町とはいえお城もないではないか、お城がないのに城下町とはアキレタ話だ、お城がなくて城下というなら、タニシもサカナの部類か、と言ったと思われる。
「隣(となり)で蔵がたてばコッチで腹が立つ」ということわざがある。北条という隣の栄えるのをねたみ、筑波・小田の人々はこの口誦を伝えてきた。現状からは遠い、かつての北条のにぎわいを語るために、言い伝えられてきた口誦を、ここに記しておくことにした。
なお、ことのついでにもう一つ記しておく。今記しておかなければ、忘れさられてしまうと思うからである。
カーンぺカンペ
小田山くーもったから
出ーてこ出てこ
カンペはヂグモのことである。地中に袋状の巣をはり、近づいてくる虫をエサとする。雨が降ると、その巣が水につかってしまうから、雨の降らないうちに、巣から出てこいと、節をつけてはやしながら、その巣を引っぱって、子供の頃は遊んだものである。
これはまた天気予報でもあった。北条の街から東に小田山(宝篋山)がよく見える。その小田山を眺めて、山がくもると雨が降る、そのように北条の人は言い伝えていたのであろう。
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