北条のむかしばなし 第一回

北条の名のおこり

 このシリーズは北条新聞に掲載した郷土史家井坂敦實さんによるむかしばなしに、紙面の関係で載せられなかった、文章や写真などを追加したものです。ディープに北条を知るための小さく深~い歴史のお話し。


 それでは、北条のむかしばなしを、はじめることにしましょう。まずは、北条という地名のおこりです。


 それは奈良時代、いまから千三百年前のことです。

 そのころ、条里制(じょうりせい)というものが行われました。条里とは耕地の区画のことです。

 それまでは、人々は祖先から受けついだ土地を、おもいおもいに耕作して、その土地は広いのや狭いのがあり、形も丸や四角や三角や、さまざまであったことでしょう。

 そういう耕作地を一面にならして、耕作地一枚一枚を短冊形(たんざくがた)に区画整理したのです。

 それが条里です。

 これは誰にも平等に、耕作地を分け与えるためでした。

 一人一人が、男女の差はありましたが、等しく同じ広さの土地をもらったのでした。

 人は一生その土地をたがやし、死ねば土地は国に返納されました。

 

 北条の条は、この条里制がもとになったことは、まちがいのないところでしょう。

 全国各地に北条の地名があります。

 ということは、北条という地名はありふれたもので、ただたんに「北にある条里」ということです。

 したがって、北の条里があるからには、東条、南条、西条、そして中条があってもいいわけで、これらの地名も各地に残っております。

 この時北条ははじめのうちはホクジョウといったかと思います。


 一二七九年の文書(弘安二年常陸国作田惣勘文)に

筑波北条

南条片穂庄

 という記述があります。

 これは筑波郡の北条・南条のことだと思われます。

 桜川をはさんで、北を北条といい、南を南条といったのでしょう。

 筑波山の麓から桜川までの一帯が北条です。

 南条片穂庄(かたほのしょう)とは、今の大曽根・玉取あたりをさします。

 ちなみに、つくば市合併前の「大穂町」は大曽根の大と、片穂庄の穂の字をとって、大穂と命名したのでした。


 一四一七年の文書(応永二十四年足利持氏寄進状)には

常陸国北条郡宿郷

 と出てきます。

 先の「筑波北条」の北条が、独立した形をとって、北条郡といわれるようになったのです。ここで問題なのは宿郷です。

 「宿(しゅく)」というのは、街道の重要な地点にできた集落のことです。

 それゆえこの宿郷は、あるいは今の北条の地をいうのではないかとかんがえられるのですが、たしかな証拠はありません。

 「北条郡北条郷」と書くかわりに、同じ字を二度出さずに、宿郷と書いたかと推測するばかりです。



 北条郡が筑波山麓まで及んでいたことを示すのは、稲野神社(いなのじんじゃ)(今は飯名神社といわれております)の一四七九年(文明十一年)の鰐口(わにぐち)です。

 それには

常陸国北条郡臼井村

 とあります。

 北条郡の名称は、十五世紀から十六世紀まで残っていたことが推測されます。



 現在の北条の地名が、はじめてはっきりと史料に登場するのは、八坂神社の五輪塔(ごりんとう)に奉納された経筒(きょうづつ)です。

 それには次のように記されております。

十羅刹女  常州北条住人

奉納大乗妙典六十六部聖道慶

三十番神  天文六年今月日

 天文六年は一五三七年にあたります。

 この時北条に住んでいた聖道慶(ひじりどうけい)という人が、この経筒を奉納したのでした。


 この五輪塔は、もと八坂神社下にあった吉祥院のものです。

 吉祥院(きっしょういん)は八坂神社の別当寺(べっとうじ)でした。

 明治の廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)の際に、寺がなくなって、五輪塔は神社わきに移されたのです。

 では、北条が北条になったのはいつからなのか、と問われても困ります。

 歴史というのはわからぬことばかりです。

 条理の行われた土地が、ある時から桜川を境として南北に区分され、そのうちの北の部分がいつのころからか北条郡といわれるようになり、その中の街道ぞいの重要な集落が、いつからか北条とよばれるようになったとしか、いえません。

 記録された文書が残っていないかぎり、歴史はなにもわからないのです。


 北条の地は古くから栄えたところでした。

 これからもむかしばなしを続けていくことにいたすことにしましょう。

みんなの登校日

つくば市筑波地区にある廃校を 地域住民が主体となって活用していく まちづくりプロジェクト「みんなの登校日」です。 みんなの登校日を運営する 北条街づくり振興会青年部会の まちづくりと廃校活用の事業をおしらせいたします。